つらつら:主体と目的(2018.8.16)

僕はここ一番?でポカリスエットを愛用してます。

そんな強いこだわりでもないので他のスポーツドリンクも飲みますけど、一番元気になるのがポカリスエット(個人の感想です・大塚製薬さんからは何ももらってません)。

人工甘味料使ってないから甘さがそのままカロリーになってる?
甘かった分ちゃんと糖質摂りたい人間なんです(笑)

だから運動前から摂るし、運動中にも水分補給というよりは”カロリー補給”的な意味合いで取ります。吸収早くて元気出るし。

同じ理由で体調悪い時にはとりあえず飲んで様子見る。飲む点滴的な。

でも普段は練習の時でもあんまり飲まない。
そんなにカロリーもミネラルも必要ないから。
愛用者だけど常習はしないスタンス。

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さて、ここまで書いておいて今日の本題はその製品とは別にあったりする。

4月か5月くらいかな、ポカリスエット(大塚製薬さん)公式でダンス踊ってる動画を見つけたんですよ。偶然。YouTubeで。

ダンスの動画が好きでよく見てるので、関連で出てきたんだったかな。

ポカリスエット好きだしまぁ見てみるかって感じで見た。

そしたらとても気に入ってしまって、見つけて以来元気出したい時に見てしまう。

ダンスと曲、歌詞、映像が全部、主体が誰でそれを応援したいんだってメッセージが溢れてる。
主役はポカリスエット(商品)ではなく部活のある中学・高校生で、ポカリスエットはそれを応援したいんだって。

音楽は「君の夢は僕の夢」、メッセージは「自分はきっと想像以上だ」。
当然メッセージの「自分」は対象となる中学・高校生。

ダンサー(中学高校生の分身)がパリの街中で踊っている中、それを注目する人、一緒になって体を動かす人、ただ通り過ぎる人、邪魔そうに自転車のベルを鳴らす人もいて、それは社会・世間と個人の立ち位置のようでもある。と思う。
それは個人的にもストリートパフォーマンスの醍醐味でもあると思っていて、それが映像の中で表現されていることに強く惹かれる。

正直、見るたびにうっかりすると涙が溢れるくらい好き。

キューバ編も同時に公開されてた。これもいい。
ポカリスエットWEB動画|ダンスが上手で陽気そうなキューバで、ポカリのダンスをガチで踊ってみた。

これらの動画は公開が2016年。

そして2017年には全国の中学高校生からダンス動画を募っていたらしくその総集編がこちら。

これも良かった。主体は投稿した中学高校生たちで変わらず、一人で、友達で、グループで、それぞれがダンスを通じて表現をしている。

たくさんの人が出ているけど、決してそれぞれを同質化させることなく、それぞれの表情がよく見える。

それぞれの表現、それぞれの空気感、それぞれのスタンス。
それらがちゃんと見えていて、それぞれを応援したいというメッセージが感じられる。

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他にもいくつもこのダンスを使った動画がアップされているけど、上の3つがお気に入り。
他のものの中には、映像としていいなぁって思うものとかもあるけど、上3つのような「生(なま)」がないように感じるのかな、って書きながら思った。

あと、他の動画では主役が変わったように感じた。
上3つでは、ダンサーと言う中学高校生(の分身)が主役だったのに対して、他の動画は映像が主役になってるように感じた。

映像としての表現を優先すると、ダンサーの表現が減る。

特に今年(2018年)発表された『CMのために集まったダンサーの人数でギネスに挑戦』という企画とその映像をCMに使ったものでは、目的が「ギネスに挑戦」なので、ダンスとダンサーはその目的のための素材であって主役じゃない。

だから、同じようなダンスを題材にした映像であるのにあまり興味を引かなかった。

表現されるものには表現する人の意思がある。
で、僕はその表現の意思をストレートに見せてくれるものが好みらしい。
これらの動画で言えば、表現者=ダンサーの意思がそのまま映像の中で生きているような、そんなものが好きなんだってこと。
これらの動画を比較しててそう気がついた。

表現には素になるものがあって、その素を表現する意思によって形になる。
その表現されたものは、表現者の意思とは関係なく受け取る人によって違う形で伝わる。

表現されたものをどう受け取るかは人によって変わるのは仕方ない。
仕方ないというより、それは表現の一部でもある。

だから今ここに書いていることは、受け取った僕の解釈であって映像を作った方の意図とは全く違うものなのかもしれない。
でもそれも表現というものの一部。

受け取り方の自由度を保っている表現は、表現されたもの以上のメッセージを伝えることもあると思う。
反対に受け取り方をコントロールしようとする表現は煩く感じることもあるし反発も受けやすい。

と思ってる。

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自分でやってることはどうかな、と振り返る。

イベントだって、スクールだって、人と関わることだから目的とそれにあった演出がある。

え?演出してるの?って言われるかもしれないけど、演出してないように見えるのは演出しないっていう演出なんです(強引)

イベントごとなら主体(主役)は自分ではなく参加者さん。
目的も参加者さんに沿ったものを用意したいなと思うし、反対に目的をシンプルにしておくことで「思ってたの(目的)と違った」と言う誤解を減らしたいし参加者さんがそれぞれの受け取れる「余白」を用意しておきたい。

ショーやパフォーマンスなら、、、なんだろう(笑)
主役であるのは僕なようで見てくれる方々のようで。
前に立ってる僕も見てる人の中の一部になってるみたいな感じもするし。
25年もやってきても、よくわからないことが多くて、それはまだ僕の中での未消化な部分があるんじゃないかなって気がしています。

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なんだか長々と書いてしまったけど、上の方に挙げた動画を見続けてて主体と目的というのに思い当たったので書いてみたんだけど。。。
書けば書くほどにまたいろいろと新たに「自分はこう感じてたのか!」って驚くことがあってこれもまた表出させていくことの楽しさかなぁと。

ま、こんなことも思ったりしますよってことで。

ではまた。